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治験データの数百時間を90分に——AIネイティブCRO Hill Researchと、日本に残された空白

2026.7.29

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執筆者:鳥海俊輔

新薬の承認申請に必要なデータ作業。従来なら1試験あたり数百時間かかります。 それを数時間に縮めたスタートアップが、すでに大手製薬と取引を始めています。

何が起きているのでしょうか。

「ソフトウェアを売る」のをやめて、「AIで武装した受託会社」そのものになる。 これは法律、会計に続いて、規制が最も厳しい医薬品開発でこのモデルを動かし始めた、Hill Researchの話です。

1. 潮流——SaaSの次は「SaS」

いま海外のAIスタートアップで最も熱い構図のひとつが、Services-as-Software(サービスのソフトウェア化)です。

ツールを売るのではなく、業務そのものを引き受けて成果を納品する。狙う市場はソフトウェア予算ではなく、人件費と外注費、つまりBPO市場です。

先行事例はすでにあります。

英国のLawhiveは、AIを中核に据えた「AIネイティブな法律事務所」を掲げ、弁護士の業務をAIで支える仕組みをゼロから設計しました。2026年2月にはSeries Bで6,000万ドルを調達しています。

米国のAccordanceは会計領域で同じことをやり、シードで1,300万ドルを集めました。背景にあるのは、米国で会計士が5年前より34万人減り、公認会計士の75%が今後10年で引退するという構造的な人材不足です。

では、地球上で最も規制が厳しい産業である医薬品開発では、誰がこれをやるのか。

その答えがHill Researchです。

2. 前提——新薬のデータは、こうして当局に届く

Hill Researchの凄みを理解するには、まず治験の裏側を知る必要があります。

新薬が世に出るまでは10年単位、数百億〜数千億円かかる世界です。治験(臨床試験)で数千人分の検査値・投薬記録・有害事象データが発生しますが、規制当局(米FDA、日本ならPMDA)は「生データの山」を受け取ってくれません。提出には厳格な作法があります。

工程はこのようになっています。

① 生データ → SDTM変換。 バラバラな形式の収集データを、CDISCという世界標準の形式にマッピングします。試験ごとにデータの癖が違うため、統計プログラマーが変換プログラムをドメインごとに手書きします。

② SDTM → ADaM変換。 解析用に「投与開始からの経過日数」「解析対象集団フラグ」といった派生変数を計算し、解析直結のデータセットを作ります。これも手書きです。

③ ADaM → TLF作成。 統計解析計画書(SAP)に定義された数百枚の表・図・リスト(TLF)を出力します。TLF1枚につきプログラム1本。1試験で数百本です。

④ ダブルプログラミング。 医薬品ではミスが許されないため、別のプログラマーが同じ仕様から独立にもう1セット全プログラムを書き、出力を突合します。①〜③の作業量が、実質2倍になります。

1試験数百時間の正体は、こちらになります。

そして製薬会社はこの工程を、CRO(医薬品開発業務受託機関)に外注するのが業界の常識です。この市場が、Hill Researchの狙う土俵になります。

規模——巨大で、伸びている。
世界のCRO(医薬品開発業務受託機関)市場は2024年で約1,100億ドル。2029年には1,600億ドル超に達すると見られています。最大手IQVIAの臨床開発部門だけで年間約85億ドル、続くICONも約80億ドルの売上規模です。
日本も無縁ではありません。日本CRO協会の会員企業の総売上高は2022年に過去最高の約2,419億円に達し、その後も一定規模で推移しています。グローバルに比べれば二桁小さい市場ですが、それでも数千億円が動いている市場となっています。

集約度——上位は大きいが、独占ではない。
上位5社で市場の35%超を握る一方、残りは中堅・専門特化型の無数のCROがひしめいています。治験は疾患領域ごと・国ごとに要求が違い、一社で全部を最適にこなせないためです。腫瘍に強いCRO、特定地域に強いCRO、データ解析だけを請け負うCRO——と専門性で切り分けられ、上位は大きいが裾野も広い、という分散が生まれています。
日本国内でも、シミックやEPSといった内資系大手から、外資系のIQVIAサービシーズジャパン、専門特化型まで、同じく分散した構造になっています。

中身——本質は人月商売。
この市場の売上は、投入した人の数と稼働時間にほぼ比例します。規模を伸ばすには人を増やすしかなく、利益率は人件費に縛られる。典型的な労働集約型ビジネスです。

3. 何をしたのか——人力で数百本のコードを、AIが書く

Hill Researchは米ニュージャージー州プリンストンにオフィスを構えるスタートアップです。投資家にはHSG(旧セコイア・チャイナ)、Covenant Venture Capital、MiraclePlusらに加え、ニュージャージー州の経済開発機関も名を連ねます。チームはAI人材と臨床研究の専門家の混成で、生物統計家にはYale出身者を擁しています。患者リクルートから申請文書の作成まで、治験のデータ業務を幅広くカバーするAIプラットフォームTriClickを開発しました。

ただし本稿が注目するのは、その中でも出口側です。前章で見た、統計プログラマーが数百本のプログラムを手書きし、さらにもう一人が書いて確認する——あの工程を、Hill Researchはどう置き換えたのか。

その答えは、AIが本当にコードを書いている、です。

統計プロダクトのTriClick Statsは、定型テンプレートに当てはめるのではなく、試験仕様を読んで文脈を理解し、R・SAS・Pythonのコードそのものを生成します。エラーが出ればループ内で自己修復し、同社によればリトライ成功率は99%超。生成された出力は、もとになった仕様・コード・レビュー判定とひもづいたまま残り、後から誰でも経緯を追えます。

同社が掲げる数字を並べると、こうなります(いずれも同社発表)。

  • 統計プログラミングの手作業を最大60%削減
  • 第III相がんの臨床試験で、生のEDCデータから提出可能なTFLパッケージを90分・前ベンダー比300倍速で納品

ここで大事なのは、人間が消えていない点です。

TriClick Statsは、人間がループに入る設計を明確に掲げています。すべての出力が仕様・コード・レビュー判定にさかのぼれる状態で、最後は人間の生物統計家が確認して署名する。かつての品質保証は、別々のプログラマーが独立に組んだ2つの結果を突き合わせるダブルプログラミングでした。それが、AIが書き、レビュー用のAIが一次判定し、人間が最終承認する、という形に変わった。検証という機能は残し、担い手だけを組み替えたのです。

ある製薬企業の生物統計アソシエイトディレクターは、こう評しています。TriClickは自社の最高のプログラマーがやることを、ひっきりなしの質問なしでやってくれる。1時間に及ぶ問答のループも、繰り返される認識のずれもなく、ただ使える提出用のTFLが出てくる、と。人間の役割が、コードを書く人から、設計して承認する人へ移ったことを、よく言い表した一言です。

4. なぜ、よりによって治験で成立したのか

AIが社員のように働く受託会社は、なぜここまで規制の厳しい治験データの世界で動き出せたのか。理由は3つあります。

① 正解の形が、最初から決まっている。

これが技術的な核心です。治験データの成果物は、CDISCという世界標準で形式が完全に定義されています。つまりAIが出した答えが正しいかどうかを、機械的に照合できる。出力の答え合わせが自動化できるのです。

規制が厳しい業界ほどAIは入りにくい、と思われがちです。しかし実際は逆でした。規制が厳しいからこそ様式の標準化が徹底されていて、標準化されているからこそAIの適性がむしろ高い。Hill Researchはこの逆説を見抜いて、最初の事業に選びました。

付け加えると、前章のダブルプログラミングは法律上の義務ではなく、業界が品質保証のために積み上げてきた慣行にすぎません。規制が求めているのは検証可能性と追跡可能性であって、人間が2人がかりで書くことではない。だからこそ、そこをAIの判定と人間の最終承認に置き換えることができた。

② ソフト販売と業務受託を、地続きにした。

Hill Researchは関与の深さを顧客に選ばせます。一番軽いのはAPIでTriClickを自社運用するソフト提供。中間は同社のオペレーターがプラットフォームを動かし、顧客は科学的判断だけを担う形。一番重いのはプロトコルから提出まで丸ごと請け負うフルアウトソーシングです。

これが効きます。製薬業界は世界でも指折りに保守的で、新しいソフトの導入にはバリデーションと社内調整の長い戦いがつきまといます。だからHill Researchはツールを買えと迫らない。慎重な顧客には外注先として価格と納期で勝負し、前向きな顧客にはソフトを開放する。ソフトウェアの予算と、外注費という人月の予算、その両方に手を伸ばせる構造になっています。

③ 市場が空いている。

1,100億ドルのCRO市場で、AIの浸透率はまだ一桁%とされます。先行者の少ない巨大市場に、桁違いの生産性で乗り込む余地があります。

ここで疑問が浮かびます。これだけ有望なら、IQVIAのような既存の大手CROが自分でAIを取り入れれば済む話ではないか、と。実際、大手も動いてはいます。たとえばIQVIAは、NVIDIAの技術を使ったAIエージェントの導入を進めていますし、グローバルCROのVeristatは2026年に統計解析を自動化する自社製品InStatを発表し、提出可能なTFLパッケージを数週間から5日以内に縮めたと発表しています。

それでも新興プレイヤーに勝機があるのは、既存CROにとってこの自動化が自己否定になるからです。彼らの売上は人月、つまり投入した人数と時間に比例します。プログラミング工数を大きく減らすことは、請求できる工数を減らすことと表裏一体です。何万人もの専門人材を抱える組織が、その人材の仕事を消す技術を全力で推し進めるのは、構造的に難しい。人月モデルで利益を上げている限り、自社の収益基盤を崩す変化には本気になりきれません。

逆に、最初から人月に依存しないHill Researchのような新興勢は、失うものがありません。成果物に課金し、工数が減るほど利益が出る形で設計されているからこそ、自動化を全力で進めることができ、その差は時間が経つほど埋めにくくなっていきます。案件をこなすたびに試験仕様や修正パターンがデータとして蓄積され、AIの精度と対応範囲は磨かれていく。大手が重い腰を上げる頃には、先に動いた側にはすでに実績と学習データの差がついています。規制産業では、最初に「正解の形」を機械に読ませた者が有利になる。これは、法律や会計の業界も同じ構図でした。

5. 日本でやるには——条件はほぼ揃っている

ここからが本題です。このモデル、日本でこそ刺さるのではないか。

追い風①:PMDAもCDISCを義務化済み。

日本の承認当局PMDAは2016年10月に申請電子データの受付を開始し、2020年3月末で経過措置が終了。以降、対象試験はCDISC標準準拠の形式での提出が必須です。つまりHill Researchのモデルの前提条件である「正解の定義の存在」は、日本市場にもう敷かれています。

追い風②:既存CROは人月モデルのまま。

国内大手CRO(シミック、EPSなど)は、CDISC対応の申請電子データ作成や統計解析を、高度な専門人材の労働集約で受託しています。そしてCRO業界では、統計プログラマーを含む専門人材の不足が常態化しています。

追い風③:業界は「できるはず」と気づき始めている。

国内の製薬・CRO業界でも、CDISCによる様式の標準化とAIの進展を背景に、統計解析プログラムの作成を自動化できるのではという議論が出始めています。理屈のうえでの機運はある。しかし、それを「AIネイティブCRO」として事業ごと取りに行く国内スタートアップは、調べた限り見当たりません。

国内の治験×スタートアップは、患者リクルーティングなど「治験の入口」側には存在します。しかしデータの後工程——統計解析と申請データ作成——は空白です。

壁は、技術ではなく人です。

このモデルの希少資源はAIではありません。基盤モデルはClaude、GPT、Geminiといった商用LLMを使い分ければよく、そこは差別化要因になりません。本当に希少なのは、AIの出力に署名できる、製薬会社から信頼される生物統計家と経験豊富な統計プログラマーです。Hill ResearchがわざわざYale大学出身の生物統計家を看板に掲げ、チームを「AI×臨床研究専門家」の混成にしているのは偶然ではない。日本で挑むなら、大手CROや製薬の生物統計部門からキーパーソンを口説けるかが、技術開発より先に来る勝負所になると考えます。

6. 結論——標準化された規制産業は、AIにとって最高の獲物

Hill Researchからひとつの公式が示されたと思います。

「世界標準フォーマットが存在する規制産業」×「人月のBPO市場」=Services-as-Softwareの最適な狙い場。

治験データはその条件を完璧に満たしていました。そして同じ条件を満たす領域は、まだ他にもあるはずです。様式が法令で定義され、専門人材の手作業で埋められている書類仕事、心当たりのある業界は、日本にいくつもあると考えます


参考資料

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