著者:武内樹心(@jjj_jushin)
2019年に突如発生したコロナウイルスの世界的流行ですが、2021年現在もまだ沈静化していません。しかしワクチンの接種が徐々に進み、少しずつ世界はコロナウイルスを克服しようとしています。
世界中の人に接種されるワクチンを開発する企業の一つにモデルナがあります。実はこのモデルナはバイオテックスタートアップだったことは皆さんご存知ですか。2018年に上場し、コロナウイルスに有効なワクチンを開発したモデルナは、2021年8月現在約1700億ドルもの市場価値があるとされています。コロナから世界を救うスタートアップはどのように生まれたのでしょうか。
#1.一人の不遇な科学者
モデルナの歴史について話す前に、1人の不遇な科学者について話をしなければなりません。このmRNA利用の技術開発の立役者であるハンガリー出身の科学者、カタリン・カリコ博士です。彼女の研究人生は苦難の連続でした。
ハンガリー生まれのカリコ博士は生化学の博士号を取得した後、地元の研究機関で研究員として働きましたが、研究資金が打ち切られたことから1985年、夫と娘の3人で渡米します。しかし当時ハンガリーは社会主義体制で、外国の通貨を自由に持ち出すことができませんでした。そのため、カリコ博士は2歳の娘のぬいぐるみの中に全財産の900ポンドを忍ばせてアメリカに持ち込むなど、出国には非常に苦労したようです。
アメリカでは、ペンシルベニア大学などで研究員や助教授として働き、mRNAの研究に没頭。しかし研究成果はなかなか評価されず、助成金の申請を企業から断られたり、所属していた大学の役職が降格になったりするなど苦難の連続だったといいます。
ある日、ペンシルベニア大学でHIVのワクチン開発の研究をしていたドリュー・ワイスマン教授と知り合い、HIVのワクチンをmRNAで作ることを目指し、2人は協力するようになりました。当時の研究ではmRNAを投与すると、身体が大きな拒否反応を示していました。そこでカリコ氏は、mRNAをtRNAというより小さいRNAに似た構造にすることによって、身体の拒否反応を抑えることに成功しました。
これは革新的な技術であり、mRNAをワクチン利用したワクチン実用化の大きな一歩となります。この成果を2005年、カリコ氏はワイスマン教授と共同で発表しますが、あまり注目されることはなかったようです。その後彼女たちはこのmRNAを治療に役立てることを目指し、 RNARxという会社を起業しました。しかしビジネスとして売り上げの目処は立っておらず、資金調達は難航したようです。
会社を立ち上げた直後、CellScripというバイオテクノロジーを利用する企業から特許使用の提案が舞い込みます。資金調達に苦戦していた彼女たちにとっては願ってもいない提案でした。
ところがこの技術を開発したのは彼女であったにもかかわらず、特許を大学側が保持していたためにCellScriptに大学が独断で特許を売り渡してしまったのです。さらにその後特許料までその企業に払わなくてはならなくなり、カリコ氏は会社を畳まざるを得なくなりました。現在、カリコ氏はBioNTechというmRNAを使ったがん治療に取り組む会社で働いています。
しかしこのカリコ氏が生み出した技術はmRNAを利用した薬品の実用化を押し進めることになります。その大きな恩恵を受けた企業の一つがモデルナです。
#2 大きな理想とピボット
モデルナの共同創業者となるデリック・ロッシ氏は、幹細胞と再生医療分野を専門にする生物学者でした。2010年にモデルナを創業した後4つのバイオベンチャーを創業した連続起業家であり、2011年にはTIME誌で「最も影響力のある100人」に選ばれています。
2010年、ロッシ氏はmRNAを使って人の身体を「薬の工場」にすることをコンセプトとして掲げ、モデルナをスタートさせます。薬の工場とはその名の通り、人体そのものが病原体に対する免疫や抗体を作れるようにするということです。
そもそも全ての生物には共通する仕組みがあります。DNAという大元の設計図があり、それを外部に持ち出すために転写してRNAという設計図のコピーを取ります。その設計図のコピーを翻訳してタンパク質を作り出し、その作られたタンパク質が様々な働きをするのです。ここでもしもRNAを人工的に自在に作れたとしたら、人工的に人体に好きな細胞やタンパク質を作らせることが可能になるわけです。
今までは様々なウイルスや病原体に合わせて、一から製作するしか無かったワクチンや治療薬を、まるで数学の公式の変数に当てはめるだけで作れてしまうということです。もしこのmRNAを使った治療薬やワクチンが安全に利用できるのであれば、医療の常識を根底から覆すことができるとされていました。
しかしモデルナのこの目標を達成することは簡単ではありませんでした。がんの治療薬など、強い効果を持つ薬品を作用させるには複数回にわたってmRNAを体内に注射しなければならなかったためです。複数回にわたって大量のmRNAを身体に注射すると、カリコ氏によって発見された従来の方法では完全に身体の副作用を抑え切ることができませんでした。
そのためモデルナはこれまで行ってきた治療薬の開発を一旦諦め、治療薬に比べるとmRNAの投与量が少なくて済むワクチンの開発に力を注ぐことになったのです。
創業当初のモデルナはこれらの理由から開発が難航したため、人間での治験はおろか動物を利用した段階の実験のみしか行えていなかったのです。ワクチンや治療薬を製品化できていなかった当時のモデルナは収入も少なく、資金調達に苦しみました。当時は従業員が25人程度でしたが半年分の事業の維持にも困るほどであったといいます。
#3 躍進と上場
2013年、資金調達に困っていたモデルナの状況は一変します。なんとイギリスの大手製薬会社であるアストラゼネカ(モデルナと並び海外で主に使用されているコロナワクチンを開発した会社の一つ)とパートナーシップを結び2億4000万ドルの資金を調達します。まだ人間での治験段階に至っていない薬品に製薬会社がここまで大きな額を費やすことはかつてありませんでした。
この大きな資金調達の背景にはある1人の人物の存在が背景にありました。モデルナの現CEOであるステファン・バンセル氏です。ハーバードビジネススクールでMBAを取得し、モデルナに入社する前はフランスの診断会社BioMérieuxのCEOに就任していました。彼は優れた営業の才能があり、モデルナがまだ動物実験しか行えていない段階から地道にスポンサーを探していました。
mRNAの研究に関する国際会議でバンセル氏のスピーチを目にする機会があった前述のカリコ氏はバンセル氏のプレゼンテーションを高く評価していたようです。
後にインタビューでカリコ氏はこう語っています。
「博士号を持ち、1978年から研究を行っている私の方が確かに知識は豊富であると思います。しかし科学者の性格か、正確性を期すためにmRNAののリスクや実現できること、できないことについて細かく説明しすぎてしまいます。一方バンセル氏は『mRNAならなんでもできる。』と言い切ることができてしまうのです。」
アストラゼネカとのパートナーシップを皮切りに様々な企業から資金調達に成功します。2015年には創業5年目にして初めてのワクチンである、インフルエンザワクチンの開発に成功します。2016年にはビル&メリンダ・ゲイツ財団と業務提供し、一億ドルの助成金枠を手に入れます。2017年には初めての難病治療薬(メチルマロン酸血症)の臨床試験に成功するなど徐々に事業が軌道に乗っていきました。
2018年、モデルナは米ナスダックに時価総額75億ドルという米バイオベンチャーとしては史上最高額で株式上場します。その後も企業価値は上がり続けたモデルナですが、2020年のコロナウイルスに対して有効なワクチンを開発したことにより最終的な企業価値は1700億ドルにまで上りました。
次章ではモデルナの迅速なワクチン開発の経緯に迫っていきたいと思います。
#4 最速のワクチン開発の裏側とは
モデルナは前述の通りmRNAを利用したワクチンを開発しましたが、これは従来のワクチンと比べると根本的に仕組みが異なります。伝統的なワクチンは生ワクチンや不活性化ワクチンと呼ばれ、弱った病原体を体内に入れ、免疫を行う細胞に記憶をさせることで免疫機能を向上させようとするものでした。
そのため病原体ごとにワクチンに適したワクチン用抗原を選定・製造し、大規模な工場で鶏卵を利用し培養、という様々な工程が必要でした。これらはワクチンの効能も安定している一方で、病原体の培養だけでも6ヶ月も時間がかかってしまうなど、ワクチンの開発に数年単位で時間がかかることが問題でした。
一方mRNAを用いたワクチンは大きくアプローチが異なります。mRNAを利用したワクチンは弱った病原体ではなくそのウイルスの情報そのものであるmRNAを体内に入れることで免疫を獲得するというものです。つまり病原体のDNAを解析し、その病原体のmRNAを注射するだけなので、従来のワクチンに比べるとワクチンに適した抗原を選定したり、病原体を培養する必要が無いため時間の短縮になります。
パンデミックが発生した直後、2020年1月10日に中国の科学者はコロナウイルスの遺伝子配列をオンラインで投稿しました。その後モデルナはウイルスのゲノム解析、免疫を引き出す抗原のRNAをデザイン、ワクチンの製造を合わせて65日で行い、3月16日に臨床試験まで漕ぎ着けました。その間2ヶ月強という驚異的なスピードでした。今は、数百万人分のワクチンを製造できるよう24時間365日体制を整え、社員を増やし対応しているとのことです。
もしmRNAを利用したワクチンを製造する技術がなければ数年単位でワクチン製造時間がかかり、よりパンデミックの被害は拡大していたことは言うまでも無いでしょう。コロナウイルスワクチンの開発のスピードから、mRNAを利用したワクチンの開発スピードは革新的だと言えそうです。
#5 モデルナの目指す未来
順風満帆と言っても過言では無いかのように見えるモデルナですが、まだまだ課題を抱えています。その一つに累積15億ドルにも及ぶ大きな赤字があります。莫大な開発費用にもかかわらず、mRNAを利用した薬品を製品としてまだ販売できていないためです。そのため現在の収入源はパートナーとの戦略的提携に依存しています。
また現在ワクチンを中心に開発しているモデルナですが、ワクチンは利益率が低く、さらに競争が激しいことが問題です。慢性のガンや難病の治療薬など、利益率の高い製品の開発ができなければ黒字化は難しいでしょう。
さらにモデルナが当初から目標にしていたどんな薬でも作ることができる創薬プラットフォームが実現可能なのかという問題もあります。一つでも薬品の認証が下りて実用化されれば製造方法が共通しているという点が最大の利点です。しかしDNAの編集や製品の配送などどこまで標準化できるかはまだ不明です。
現在モデルナは感染症ワクチンに加えて、当初は困難とされてきたガン免疫療法や治療薬、再生医療など様々な分野に研究開発を広げています。コロナウイルスワクチンの開発成功はモデルナの市場価値を押し上げましたが、今後のモデルナがどのように事業を行っていくのか、モデルナの大きな理想が実現するのか、その試金石となることは間違いないと言えそうです。
参考サイト
自我、野心、混乱:バイオテクノロジーの最も秘密主義のスタートアップ